自閉症と自己理解、社会性への影響/いじめ対応の重要性

自分の障害について考えてみようの会。自分でも正直分かってないのでただ考えをつらつら書いていくだけになると思う。

デリケートな話題だけど、少々ディープでダークなお話を含みます。観覧注意かも。

ASDの特性とは

ASD、自閉症スペクトラム障害。コミュニケーション能力の欠如を始めとした社会性の問題と、拘りの強さを特徴とする。Wikipedia曰く。

知的とセットのパターンもあるけど、わたしはそうではない。平均ちょいくらいの知能と診断では出た。

少なくともわたしの周囲の家族・福祉関係者・通院してる病院関係の人も似たようなことを言っていたと記憶している。

「一般的」の定義を「広く知られている・共通認識となる確率が高い」とするならば、それに当てはまりそうなGoogle検索上位=見ている人の数が多い情報でも同じようなことが書かれているので一般的であると言えるのかも。

実際のところこれらは特徴というよりも傾向というべきもので、正確な定義が困難なものでもある。
少なくともわたしの診断理由には、「3歳時点で親に呼びかけられても応答しなかった」というものがあった。感情という不定形の存在を無視して「3歳児は親に呼びかけられれば応答するもの」であるという前提を用意した上での判断なので、本人としては「勝手に変なレッテル貼るな」とすら思えてしまう。

障害への自己理解

ASDに限らずあらゆる障害に言えることだけど、障害への自己理解が精神的な安定性に影響を与えることもある。
「自分はこういう障害だから対策としてこういう行動を取ろう」という思考でいることで、周囲との差異に納得出来るという意味での精神的安定性を得られる部分もある。

あと障害というものは特性とかより「何かが出来ない」なので、出来ないことを補うような行動を意識する方が合理的。
ただし発達障害を始めとした精神障害においては、確かめる手段が他人との比較しかない。社会性の欠如を含むASDにおいて、他人との比較という社会生活を手段にすると信憑性に欠けることも否定できない。

そもそもの話、障害の自己理解を深めて取った行動・思考が「障害によってもたらされたもの」かどうかの判断すらも付かない。
精神障害=なんらかの間違い・ズレであるのなら、それを含んだ思考で弾き出された結論にも間違いやズレを含んでいる可能性だってある。つまりいつまでたっても信憑性が確保出来ず沼に嵌る。

幸福度・QOLと自己理解の関係性

幸福度という概念もまた、定義が難しい。経済的事情だけでなく、苦痛の少なさ・活力や満足度の高さを含んだものと言うべきか。QOLは経済状況を除いた生活の質という意味らしい。

このうち満足度は幸福感にも似たイメージを抱けるが、活力が幸福感に繋がるかと言われると疑問が残る。

社会生活において幸福度を得るのに、多くの同族とズレを感じやすい精神障害は難易度を上げてしまう。結果、「周りに合わせようとしたら苦痛でそれどころではなくなった」となる可能性もある。
ここで初めて「障害を受け入れてもらう」環境を欲することになるが、そう都合よく見つかるとも限らない。
そもそも「障害を受け入れる」とはなんなのか、本人にすらも判断がつかないのだから。

自己理解と周囲の受け入れの重要性

社会生活で幸福度を得るためには、他人と比べることによる苦痛を軽減することが必要になる。
「社会性」と呼ばれるコミュニケーションもまた能力だと言われる現代、精神障害も健常者と直接比べると「能力で劣る」ということになる。
これにただ劣等感を覚えるか、それを補うことで完全劣化とならないように立ち回るかで結果己の苦痛の度合いも変わってくる。そういう意味で障害の自己理解と適した行動を取ることは重要。

また障害を周囲に伝えたところで取れる対応は「特別扱い」か「同等の扱い」でしかないため、「腫れ物扱いは嫌」と「配慮されないのは嫌」という二つの苦痛の間で揺れ動くことになる。これは自己理解を進めておくことで、どの部分にどういう扱いが必要かを判断できるため軽減される。

しかし「他人との比べ方」もまた複数パターンあり、当然精神障害を持つものが著しく不利となる比べ方も存在する。そのような比べ方をして(されて)しまっては、自らにとって苦痛でしかないことは明白。
そういう意味では、「障害の自己理解を深めて補う行動を取ること」を「受け入れる」環境こそが重要なのかもしれない。

社会性とは

実際のところこの単語は「自分にストレスを与えないこと」のように使われている印象を受けているが、それはあまりに他人に依存・強制しており不合理的である。あまりに定義が広い単語であるが故に、自分に合わせることを強制させるために使うのは傲慢が過ぎる。

そういった思想を排除した上で障害・幸福度の観点から意味を考えるなら「他者とのコミュニケーションにおいて苦痛を感じない」辺りが妥当だろうか。この定義を元にすると、自閉症の社会性の欠如は「自閉症でない者と比べ、他者とのコミュニケーションで苦痛を多く感じてしまう」となる。

経済を理由として社会から完全に離れることが不可能である以上、幸福度を上げるためには社会性の欠如による苦痛の増加の対策が必要となる。

この苦痛が他者とのコミュニケーションに依存するため、適した配慮をしてもらうために障害の自己理解を深めることが重要になる……と考えると納得しやすいかもしれない。

当事者が取れる行動

恵まれた環境を前提として考察するのは個人的にあまり好きじゃないので、環境の話はないものとするけど。
人生の究極的な目標は「幸福度」とすると、それを得るためのハードルが精神障害と社会生活によって大きく上がるという話。

ASDにおける幸福度のハードルは「社会性の欠如による対人コミュニケーションでの苦痛」だと考えられるので、その対策をすることが大事だと感じる。
具体的な症例は調べればいくらでも出てくるが、当事者にとっては症状そのものを問題だと認識できないしする理由もないだろう。せいぜいが部分的に当たっている性格診断のような面白さを感じる程度である。

そうなってくるとやはり重要なのは自身の思考・人格への理解を深めてもらうことだが、これもまた確実性はなく難易度も高い。
当事者が取れる対応としては、自分と同じ障害を持つ人にありがちな傾向を知ること。そして自分の普段の行動を照らし合わせ、障害が原因である可能性があるものを特定すること。

これは「『普通ではない』と忌避される恐れのある行動」を炙り出すことが目的なので、実際に障害を原因としている必要はない。

そして炙り出しが完了したら、それらの行動が障害を原因としているものだと周囲に伝えること。これで多くの「普通でない」行動について、「障害のせいなら受け入れるしかない」と諦めと共に受容してもらえる可能性が上がる。
これを繰り返す事で「気兼ねなく普段の自分でいられる環境」を目指すことが出来るので、理想的な状況に近付く。

ただしこれらは全て理想論であり、現実的には伝えようと試みた時点で拒絶されてしまうこともありえる。障害を理由とした(仕事に影響をきたさない)行動が原因で理不尽に退職させられたなんて事例もあり、精神障害の認識があまり広まっていない証拠ともいえる。
自分を受け入れられない人間に対してある程度割り切った感情を持てるかどうかもまた、幸福度を大きく左右することになる。「金のために利用するべき敵」くらいの認識を持てば、こちらから拒絶することなく共存出来るだろうか。

わたしの実情

先に書いた通り、診断は幼少期。障害を知らずに小学校生活を過ごし、5年生の頃にいじめに逢い不登校に。
小学校の知り合いを避けるべく進学校を受験し入学、ガタガタになったメンタルは感受性豊か過ぎたのか些細な悪戯レベルで再度不登校。あと高校卒業までデイサービスに通い始める。
学区外の公立中学に転校するもこの辺りで諦めから学校に通う気が失せており不登校のまま卒業。卒業の少し前の三者面談にて、教員がうっかり書類を隠し忘れたことでわたしの目に入り障害があったことを知る。
高校は通信制をチョイスして、年数回のスクーリング以外に一切通うことなく卒業。ちなみに課題の全てが答え丸写しというやる気のなさで、高校に関しては「金で買った卒業資格」とでもいうべき代物。

このブログから分かる通りガジェオタやってたので、そこそこのPC知識と高卒資格でA型事業所に入所。今の人格が完成したのはこの時期で、縁あって転職しパートタイムで経理・会計・労務管理の仕事に就く。

……正直言って「家庭環境が良好」「金で卒業資格が買えた」「転職の際に縁があった」など、かなり恵まれた方だと思う。そんなわたしですらこうなのだから、この環境すら整っていなかったらと思うとゾッとする。

実際に家庭環境劣悪・高校の学費をバイトで稼ぐ・知的障害を持ち能力格差があるという人生ハードモードな2歳下の知り合いがいたし、そいつが地獄を見ているのは知ってる。ちなみに突然ほぼ一方的に縁を切られたのだけど、どの道わたしに理解できる地獄ではないのでわたしと縁を切れるくらいの友達がいるならある意味これで良かったのかもしれないとも思う。

どこで歯車が狂ったのか

一番大きな原因は間違いなく小5の時のいじめ。加害者は同じクラスで、単独犯。
逐一担任の教師には報告していたものの、下校中の犯行のため教員が誰も目撃出来ていないことと担任の教師が「ただ謝らせる」というほぼ無意味な対応を繰り返していたのもあって次第にメンタルが飛んで不登校に。

不登校から1年近く経ち6年生への進級直前になった頃に母親が校長まで話を持っていき、校長はたまたま福祉に深い関わりのある人だったため一瞬で問題を認識し解決に向けて動く。加害者の母親とわたしの母親に両児童・校長と教頭と担任が揃い、ここでようやく加害者の母親・教頭が事実を知りいじめを認める。
わたしは特例措置として支援学級への滞在を許可され、更に6年生への進級時には加害者と別クラスにされた(これは事前に話があった)。
その後加害者とその母親・担任にどのような対応を取ったのかは定かではないが、担任は数年もしないうちに教員を辞めて親の経営する病院に転職したと聞いた。

正直学校にボコボコにされたところもあるんだからわたしにもうちょっとなんかあるだろと思わなくないけど、求めても仕方がないので置いておく。

原因は「ほうれんそう」不足?

この一件がここまで大きくならなければ、今とは全然違う人生を歩んでいたと断言出来る。幼少期から多少の攻撃に精神を病むことはあったし、その程度に収まっていたなら最初から不登校なんてことにはならなかった。事実いじめを受けつつもかなりの期間気合いで通っていたので、早期に解決していれば不登校になることもなかったと自負している。

ここまで事が大きくなった原因は、間違いなく担任の教師の対応だろう。全く同じ問題が繰り返し起きているのに背景を調べず、画一的な対応しか取らなかったことで改善の機会が失われた。
背景を調べることが不可能であるなら、最低でもその時点で教頭や校長へと報告をすべきだった。それをしなかった理由が怠慢か保身かは分からないが、どっちにしてもダメじゃんという話である。

これも約10年前の出来事、今よりもいじめという単語の認知度は間違いなく低かった。つまり保身に走る教師が多かったとも取れるし、適切な対応を取らない教頭や校長が多かったとも取れる。
しかしそれでも報告しない理由としては弱いし、校長の対応速度を考えるとこの一件は報告さえすれば一瞬で解決していたのも事実。社会人の当たり前とも言われる「ほうれんそう」を怠るだけでコレである。

ちなみに謝らせることが無意味だと断じたのにも理由がある。どうやら加害者は両親の不仲・離婚騒動に巻き込まれてストレスが溜まっており、わたしの家庭環境に嫉妬して行動に起こしたと後から聞いた。しかも卒業式の日には本人からめっちゃ真面目な謝罪も来た。
そんな複雑な理由で起こした行動が叱責一つで収束するわけがないし、叱責一つで終わらないことが分かった時点で対応を変える必要があったはず。

こうして発信した以上は書いておくけど。もし教員とかそれに関係ある人が見てるならほんと児童・生徒同士のトラブルについての報告・連絡・相談は徹底してと言っておく。謝らせて直らないなら高確率でなんか裏あるから。
ボロクソ言って悪いけど、あの時の担任は間違いなくわたしの人生を大きく狂わせたし正直かなり恨んでる。児童から話を聞いてた担任がいじめの可能性があるトラブルを報告すらしなかったという事実は、それくらい重い。

子供の悪戯なのは事実だけど、それで普通に人が死ぬことだってある。実際わたしも自殺未遂までいったので。
知らんおっさんに止められて綺麗事だけ吐かれて超腹立ったのは覚えてる。でもあのおっさんがいなかったらわたし死んでるしな。今でこそ死んだ方が良かったとは微塵も思ってないけど、当時の死ぬ権利の尊重とかも考えるとちょっと複雑ではある。

ただ一つ言えるのは……わたしと同じような流れで死んだ人がいたとしたら、わたしはいじめを放置した教員を殺人犯と同等だと考えてしまう。
尽力して死んだなら「救えなかった命」だけど、怠慢や保身で死んだなら「殺人の幇助」。この認識、広まってほしい。

とはいえ……

仮に小学校のいじめがなくても、仕事を始めてからASDの影響でトラブルを起こし似たような状況になっていたであろうことは容易に推測出来る。

それでも子供時代の経験は人格形成に大きく影響するし、割と勘弁して欲しかったとは思う。今更だけど。

お陰でASDのわたしに優しい人生を送っているので、結果としては悪くない方向に向かっていると信じたい。
ただそれは過程が良かったことにはならないので。人生とは後悔の積み重ねである……のかもしれない。

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